おはようございます。血糖値が低いと考える力が落ちますよね?
先日「インドの衝撃」のコメントで、
教育の再生は重要だけど、教育基本法の改正よりも具体的な中身が必要なのになー。愛国心なんていいだすとますます考えない人間を増やしそうだ。
と書きました。
私自身は愛国心は必要だと思っていますが、その愛国心は「日本を良くしていきたい」と思うということで、「他の国よりも・・・」であることとは思っていません(参照)。
しかし「愛国心」という言葉は、「日本を戦争へ導いていった力」というコノテーションがついています。いやそれは日本に限らず、「他国よりも自国の利益を中心に考える」というコノテーションがついているのだと思います。
新・教育基本法には
伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと – 第二条(教育の目標)五
という形で記載されており、他を排除することを避けている文言がはいっています。しかし、戦前もそうであったにもかかわらず蔑ろにされてしまったという話があります。資料が手もとにないのでこれに関してはまた後日。
コノテーションだと書きましたが、「非国民」という言葉とセットになって使われることを考えると、既に第一義の意味になっているといっても過言ではありません。「私は愛国者ではない」と宣言する人達がいます。「私は郷土は愛しているけど国を愛している訳ではない」という人もいます。彼等は、この言葉で自分が修飾されるのを避けたいと考えているのだと思います。
調和を重んじる日本人は、同調圧力が特に強いと思います。「空気読め」という言い方にもそれが現れています(参考 – 分裂勘違い君劇場)。その中で、「愛国心」という一見逆らい難い概念が提示されたらどうなるか。一丸になって進む先は、これまで見てきたとおりだと思うのです。
いじめも同調圧力ですね。いじめられないようにいじめの側にまわる。
同調圧力は企業内部でも起こっています。不二家の問題に、戦前の日本を見る大前研一。
「産業突然死」の時代の人生論 第64回「不二家の不祥事」を繰り返す日本人の体質
なぜこんな愚かな事件が起こるのか。わたしは、親や教師が悪いと考えている。「親の言うことを聞きなさい」「先生の言うことを聞きなさい」と子どもに言い聞かせている。そういう教育ではどんな大人が育つのだろう。社会経済生産性本部が新入社員に調査した結果によると、上司から、自分の良心に反する指示を受けた場合に、指示通りにすると答えた人がいまだに4割近くもいるそうだ。
そして最初にあげた「考える力」。大前はこう書いています。
先生(文科省)の言うことだけを覚えて、自分の考えや思考方法を持たない人々が会社に入ってくる。ホンダやリクルートのような社風の会社に入れば、生存競争から次第に個性を発揮するようになる。しかし、そうした生徒が年功序列はもとより、同族支配、ピラミッド組織の底辺に入れば、まともに順応してしまう。会社によっては白いネコを見て上司が「あれはクロだな?」と質問したら、まじめに「はいクロです」と答えるまで訓練しているところもある。またそういう業界もある。
そして、戦前の日本とのつながりに言及しています。
長い物にまかれろというのは日本人の昔からの体質なのかもしれない。戦前の日本でも、みんな「この戦争はおかしい、負けるに違いない」と思いながら、戦争に突入していった。竹槍で本土決戦とは、ものすごいことだが、皆そう口には出していた。
「長い物にまかれろ」と言う言葉も同調圧力のことを示しているんですね。
考える力を育てること、そしてそれを主張すること、同調圧力に負けないこと、同調を教育しないこと、それらを教育の現場で教えていかねばならない。それが教育改革だろうと思うのだが、今の安倍政権で進めているのはその逆だと思うのです。そういうことを考えながら「インドの衝撃」を見ていました。
ここ数日ずっとそういうことを考えていたのですが、その中でこんな記事がありました。
innocuous idiot: [memo]すべてが「チョイ」になる – 「チョイワル」「チョイオタ」と同調圧力の裏表の関係について
「チョイオタ」と言葉にも同調圧力を感じとる嗅覚がここにあります。
sofia_ss の投稿:
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親の言うこと、先生の言うことを聞きなさいというのは私たちの世代で終わっているのではないかと考えています。今問題になっているのは、ハッキリ、「ゆとり教育」が失敗したことなのでは・・と思います。以前は、上からの圧力(親や先生そのほか)に反発するチカラが子供のなかにもありました。でも、最近の子供や若い人にはそれを感じることが少ないです。ゆとりという言葉の生ぬるい教育のなかで中途半端に育てられた感じがします。ルールを守ることを没個性だと勘違いしているような間違った教育の賜物が、今のだらしない社会を作ったんじゃないかと思っています。それにしても、教育再生会議って、文部科学省に最初っからケンカ売ってる名前ですよね^^
Skywork の投稿:
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食品業界での、「視点」は、これだと思います。↓↓↓↓http://fsr.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_7513.htmlTVニュースでの「映像」は、こちら。↓↓↓↓http://www.youtube.com/watch?v=fa9BwUFMOXoどのように、お考えでしょうか・・・?
raphie の投稿:
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ヒロさんの言葉をお借りすると、調和と同調圧力が、混同する時に、多くの間違いが起こってきたように感じます。海外から見るととりわけ感じるのは、やはり日本人の調和"harmony"とか協調性というのは、社会活動の上で必要でありながら、なかなかアメリカのような国では発揮できないもので、それは外から見れば羨むべき側面を持った美徳でもあると思います。ただ、これが圧力になっている事態は憂慮すべきですし、圧力とする部分こそが、日本的な問題の根っこのような気がします。結局、「個性的な方が良い」ということになった時に、そうあることに対する別の圧力がかかるのでは何の意味もありません。他人も自分も尊重するという発想が、言葉だけではなく、それぞれの価値観や生き方を尊重するという意味に転化されなければ難しいことかも知れません。
raphie の投稿:
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ゆとり教育というのはやはり何かが間違っていると私は個人的に感じます。人間の脳には詰め込みができる時期というのは非常に限られていて、その時期に大切な教養を詰め込むことを怠れば、それは底の薄い人間を作ることに他なりません。後からどんなに自分に叩き込もうとしても、それは精神力とかではなくて生物としての限界として、短期間で大量にということは無理になるのは誰でもわかっているはずなのに。それは学校で学ぶ教科や社会性と、家庭で学ぶ良識や愛情という、両方の子どもたちにとっての大切な基盤が蔑ろにされてきたのではないかという懸念でもあります。「他人と違ったとしても自分は愛されている」という親の愛や学校の社会生活に裏打ちされた自信がなければ、子どもは個性を発揮できないのではないでしょうか。
yoshihiroueda の投稿:
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★ そふぃあさん、親のいうこと、先生のいうことを聞かなくなったのが我々のあとの時代だとすると、ゆとり教育に移行しなくても早晩教育は崩壊していたということかもしれません。個性の重視が子供に必要な一定水準の教育を拒否し、さらに公共の概念の崩壊につながっているというのは納得できます。圧力がないから反発がないのも頷けます。「ほめて育てる」が、「悪いことをしてもしからない」になってもいるし。文科省に喧嘩売っても良いと思いますが、「教育再生会議」のほうも喧嘩売れる立場なのかとも思います。うのみにする訳ではないですが、陰山さんの話にはなるほどと思う部分が多いです。http://www.ewoman.co.jp/winwin/62kh/
yoshihiroueda の投稿:
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★ Skyworkさん、トレーサビリティも第三者の視点も「オープン」というところにすながり、それが安心につながるのだと思います。同調圧力と逆の方向ですね。また、食品だけでなく、日本版SOX法で多くの企業に透明性の文化が根付くことを期待しています。あとは官僚機構と政治家が残っていますが…
yoshihiroueda の投稿:
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★ らふぃさん、調和・協調性と同調圧力の混同は、どこに力を合わせないと行けないか、どれが守らねばならない一定の規範なのかの線引きが出来て、それ以外は多様性として尊重するというコンセンサスがとられるところにキーがあるんだと思います。これまで同質性が比較的高かった日本社会ではその部分はあいまいでもすんでいたのでしょう。先日テレビで、会社の運動会のために協力会社の社員も全員参加で定時後夜遅くまで練習をさせられている(もちろん無給)のを取材した番組がありました。娯楽の少ない昔はそれに参加できることも楽しみだったのだろうけど、若い人達はいやいや参加させられていて、これでは本業のモチベーションにも影響するだろうと思いました。一方、格差社会は、本来同じ方向を向くべき人達の中で協調の崩壊を招きつつあるように思います。
yoshihiroueda の投稿:
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それから個性を伸ばすと言うことはほんとうに難しいと思います。なにもしなくても個性って出てくると思いますが、それは基礎ができていて、またいろいろなことを知った上で自分にあったものがわかるもの、だから最初は基礎を広く浅く学ばねばとも思う一方で、それって興味持ったものがあっても興味をそぐことにならないか、とか。
sofia_ss の投稿:
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教育の話題にはしつこくなる私です^^コメント欄では語りつくせないのでいずれは記事にしたいとおもいながら・・。陰山さんのお話は本当のことだと思いますよ。「ゆとり教育」で一番学力が低下したのは家庭です。家庭教育と学校教育は車の両輪ですから、片方が壊れてしまったらうまく走らなくなるのは当然のことなんです。具体的には「生活科」が登場した頃から、家庭での教育力が低下したと私は考えています。最近、外で遊んでいる子供たちがそれぞれに座り込んでゲーム機でゲームをしている姿を良く見かけます。なんのために外に出ているのかわかりません。ゲーム機を持ってない子供は蚊帳の外で、親に「ゲーム機がないと友達と遊べない」と訴え、それを不憫に思った親がゲーム機を買い与える・・ということが起きています。それを「複雑な親心」と称しているようですが、おかしいと思ってます。子供のためを思うなら、ゲーム機を買わずに友達と遊べる手段を教えるのが親心なんじゃないかな、と。子供の友達の親たちとの交流が無いから、「外で遊ぶときはゲーム機は持たない」という共同戦線も張れない。親が子育てに手間をかけない時代なんだと思います。
yoshihiroueda の投稿:
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★ そふぃあさん、陰山さんは、100ます計算ばかりとりあげられるけど、いろいろ言っているんですね。それぞれ納得のできるお話でした。家庭の教育力が低下したのは分かりますが、それは「ゆとり教育」のせいなのかなあ。よその子も、そしてだらしない親さえもしかってくれるおばさんがいた地域社会の喪失が大きいような気がします。錯綜する子育ての情報・知識、個性が重視されてどこまでしつけをしてよいか分からなくなること、一方で全ての教育を学校に押し付けちゃう風潮、いろいろなものがからみあって今の状況があるのではないかと思いました。
sofia_ss の投稿:
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家庭教育の力が低下したのは明らかに「ゆとり教育」のせいですよ。(と言い切る)陰山さんもおっしゃってますが、「ゆとり教育」の方向が間違っているのです。「生きる力」をつけるための方法が違ってると私は思っています。これも話すと長くなるけれど・・・(^^ゞどこかのブログで(どこだろ?)記事にしなくちゃ☆
yoshihiroueda の投稿:
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★ そふぃあさん、「ゆとり教育」と「家庭教育の力の低下」の因果関係は、そふぃあさんのブログ記事を待ちたいと思います。