• 紹介

うえぶろぐ WordPress

~ by Yoshihiro Ueda (@ryokan)

うえぶろぐ WordPress

月別アーカイブ: 11月 2004

著作権の話(4) 写真はコピー

28 日曜日 11月 2004

Posted by yoshihiroueda in カルチャー

≈ コメントする

タグ

著作権


こんばんは。森村泰昌です(ウソ)。

要旨: 写真の被写体に著作権のあるものがあります。気をつけましょう。

ぴあのムック「ぴあアートワンダーランド: よーくわかる簡単アート史3万年60本勝負」というのを買ってきました。これ自身はそれぞれの作家や作品をそれぞれ最大見開き2ページで解説すると言う大胆な編集方針で、分かりやすいと言えば分かりやすい。たぶん専門家からみたらなんじゃこりゃというレベルのものなんでしょうね。

これを見ていて気になったのは、オリジナルとは何かということ。

・デュシャンは既製品の便器に署名して作品として提出している。
・このデュシャンも含めモナリザには多数の模写、パロディが存在する。
・ウォーホルはマリリンモンローの写真を処理したポップアートを多数出している。
・ここには載っていないが、リキテンシュタインの作品は印刷の網点まで含めてマンガの1コマを拡大複製したもの。
・マッドアマノのパロディ
…

こういうものの著作権ってどういう扱いになるのだろうか (もちろん工業製品の便器には著作権はないし、ダビンチはたぶん死んでから50年以上たっていますので、全部ではありません)。ウォーホルに著作権があるのは分かる。でもモンローのもとの写真の著作権とモンロー自身の肖像権はどうなんだろう。

またまた考えは飛びます。ちょっと前まで書いていた著作権の話を思い出しました。著作権の話 (3) で私は、自分で撮った写真は問題ないと書きました。これは風景や自然の写真や家族のイベントの写真のことを想定していました。写真の著作権は構図を決め、ピント、シャッタースピード、露出を決めた撮影者にある、ということが前提でした。

しかし、被写体のことをあまり考えていませんでした (肖像権とミッキーマウスの描かれたトレーナーに関しては言及していますが)。被写体に著作権があるものがあり、これらのことについて配慮する必要があります。

私が理解している基準は以下のようなな感じでしょうか。私自身も守っているかと言われれば疑わしいところがあります。

・雑誌のグラビアをデジカメでとったもの: もちろんアウト (スキャナでコピーするのと同じ)。
・記事が載っている雑誌のページ: 記事内容が読めないくらいならOK。
・街角にいた著名人の写真: 肖像権の許可を得る必要 (口頭でもOK)。
・ポスター: アウト。ただし街角の風景にポスターが貼られている風景ならOK。
・ぬいぐるみ: アウト。ただしぬいぐるみをもった人が中心テーマならOK。

著作権は言ったもの勝ちと言う側面があり (これは語弊があるな、言わなければ権利を守れない、のほうがいいかな)、ひとつのキャラクターでOKだった範囲でも、他のキャラクターだと著作権保有者から警告を受ける場合があると思います。上記の基準で大丈夫と言うことは保証できません。また、エキサイトと同様、積極的に他のブロガーの皆さんに警告することはありません (あーあ、責任のがれみたいでやな文章)。

著作権の話 (3) 他人の権利を尊重する

20 土曜日 11月 2004

Posted by yoshihiroueda in カルチャー

≈ 4件のコメント

タグ

著作権, 引用


こんばんは。小林亜星です(ウソ)。

今回は他人の権利(著作権)を尊重するということについて。これって実はブログではそんなに難しいことではありません。自分で書いたテキストと自分で撮った写真、自分で書いたイラスト/絵だけで構成すれば問題はありません(補足・訂正があります)。

だけどそれではちょっと寂しいですね。自分の主張だけ書きっぱなしでは発展がありません。また、書きたいことが自分の心の中とか、生活から出しているだけでは、そのうち書くことが枯渇してくるのではないでしょうか。そこで、新聞や雑誌の記事を題材にして意見を書いたり、他のブログに反論したりします。このときに使われるのが「引用」です。

引用は、「この人はXXXといっています。それに対して私は…」とか、「○○新聞によるとXXX。この事件に関して私はこう思います。…」というスタイルで使われるXXXの部分です。こう考えると難しくないですね。自分では、他人の意見と自分の意見は明確に分かれますよね。たとえ同じまたは同じような意見であったとしても、私の意見はこの人の意見とたまたま同じと認識しているわけで、私の意見をその人がしゃべっている訳でもないし、私がその人の意見を話そうとしている訳でもありません。

よく「無断引用禁止」とか書いてあるサイトがありますね。これは誤解に基づくものです。検索してみると既に解説記事もあって私が付け足すまでもないのですが、引用は無断でやるものなんです。 著作権法の第三十二条に

公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

と書いてあって、「公正な慣行」、「正当な範囲内」の部分は法律には書いてありません。それも難しいことではありません。

・出所を明示すること: 「誰が」、「どこで」言っていることか示す。「どこで」はWeb (ブログ) の場合はリンクでもOKです。「誰が」はブログの場合ユーザIDでも、ブログタイトルやその人が名乗っている名前でもよいでしょう。

・自分の主張部分が主で、引用する量は最低限: 引用元のテキストをまるごとコピーして、最後に「私もそう思います」というのはいただけません。悪い例はここ。最低限の量とは言っても、背景を説明しなければ分からないと思う場合は背景の部分も引用して良いと思います。

ときどき「XXX新聞のコラムで無断引用」なんてニュースが出ますが、この間違いはお分かりでしょう。これらは
たいがい「盗作」ですから。残念!!
出所なんて書いてませんから、読者にとってはそのコラムを書いた人の意見だと思う訳ですね。なんで「盗作」と言わないかというと、仲間同士のなれあいなんじゃないかと勘ぐってしまいます。

テキスト同様、写真や図も引用できるはずなんですが、ここはちょっと問題が複雑になります。写真など一枚で一つの作品になるので、まるごとコピーしていることになってしまうのです。それでは一部だけ切り取って提示するのは良いかというと、著作者人格権の同一性保持権を侵害する可能性があるのです。芸術作品としての写真は構図までぎりぎり考えて作品としていますから、勝手なトリミングは著者の意図を無視することになりかねません。テレビのアスペクト比は映画館と違うので、映画をテレビ放送する時にトリミングが必要になりますが、大島渚だったか(記憶があいまいで申し訳あいません)批判していたような気がします。

という訳で、私も写真を引用するときもありますが、芸術性の少ないもの(というとまた語弊がありますが)にとどめることを意識しています。ジャケット等芸術性が高いものなどは、ライフログを使うようにしています。これはエキサイトがそうできるような機能を提供しているので許諾がなされているか適正使用の範囲と考えられているものだと理解しています。

写真に関してはもう一点注意事項があります。それは肖像権、プライバシーの問題です。肖像権は肖像権法と言うような法律がある訳でなく、判例によって確立されてきたものです。ですので、私はここまでは良いと言うような説明ができません。日本音楽事業者協会がSTOP!肖像権侵害というキャンペーンを行っていますから見て下さい。
他人の権利を尊重するなんて簡単簡単といいながら誘い込んでおいて、だんだんあいまいなところまで引きずり込んできました。実はまだ、問題がいろいろあります。

・マンガだと数コマ抽出するだけでは適正な引用範囲であるはずだが、許諾を求められる。夏目房之介氏が問題提起しています。

・マンガ等で、キャラクターが鼻歌を歌っていて歌詞が1フレーズでもはいるとJASRACに許諾を得る必要がある。Webでも言ってくる可能性があると思います。

・ミッキーマウスの書かれたトレーナーなんか着て写真に映ったりしたらどうなのかな。ディズニーが文句を言ってこないか心配です。

なにか分かったら記事にするかもしれません。今日はこのへんで。

追加トラックバック:
KOBECCOさん 「著作権でなにもできなくなる。」
— ここでは適正利用に関して議論されています。教育機関、私的利用の範囲など。

著作権の話(2) ブログから派生する著作物への期待

18 木曜日 11月 2004

Posted by yoshihiroueda in ビジネス

≈ 2件のコメント

タグ

ブログ, 著作権


こんばんは。エルメスです(ウソ)。

次は「他人の権利の保護」の予定、といっておきながらちょっとその前に補足。

「著作権の話(1) エキサイトブログユーザの権利」では、コメントを含めところどころにエキサイトへの信頼を宣言しています。本気で言っています。

以前「ブログとビジネス」に山村社長からコメントを頂きました。

このサービスは一年後にはかなりの規模になっていると思っておりますが、収益源としては考えておりません。(もしなっていく何かが見つかれば嬉しいですが規模が大きくなったからといってオークションサービスのようにいきなり有料にするようなユーザーを裏切るような形態にする事もございません。あくまでも基本機能は無料で提供を続けます。)しかし新しいインターネットらしいメディアの姿がこのブログによって描けるような、まだまだ漠然とではありますが将来像を描いております。

ユーザの信頼感を大事にしている姿勢がうかがえます。「新しいインターネットらしいメディアの姿」ってなんでしょうね。これにも期待しています。

「著作権の話(1) エキサイトブログユーザの権利」のハリーさんへのコメントの中で、私は、「がんがん出版なり映画化なりしてくれた方がいいと思っています。」と書きました。これも本音です。これによってブログの価値が注目され、草の根メディアとしての位置付けが認知されることを期待しています。

ただ、これによってエキサイトだけが収益を上げるとなると反発が大きいでしょうね(「電車男」もこれだけヒットすると収益はどう処理されるのか気になります)。山村さんもそれは本意ではないでしょう。収益は全部慈善事業に使えば反発は少ないんじゃないかな。それでユーザが増えるだけでもエキサイトとしてはメリットが大きいでしょう。
さて、おなじくハリーさんへのコメントで、

信頼というのは個人の問題で、「私は信頼しています」と言っているに過ぎません。さらに「今は」という限定もつきます。ですからおっしゃるとおり明確化されていたほうがずっと良いです。

と書きました。「今は」というのは、「山村さんが社長の間は」という意味です。

不吉なことをいうと、倒産の可能性だってある訳です。出版社が倒産して、ヌード写真集だったかビデオだったかの未公開映像や、漫画の原画が流出したことがあったと思います。債権者としては使える財産は全部有効に使いたいでしょうね。そのときにこれまで信頼感なぞ何の役にもたちません。そういう意味で、利用規約はエキサイトにとって安全な側に持って行っておけば良いと言うものではなく、できるだけ明確化しておいてもらいたいと思います。

追加トラックバック

□ あざらしサラダさん: 【ライブドアブログの規約変更について考える(2)】
— 前の記事「著作権の話(1) エキサイトブログユーザの権利」で「エキサイトへの信頼」ということを書いたことをとりあげていただいています。確かに信頼しているのではありますが、そればっかりではいけないと思いこの記事を書きましたので、トラックバックさせていただこうと思います。

著作権の話(1) エキサイトブログユーザの権利

16 火曜日 11月 2004

Posted by yoshihiroueda in カルチャー

≈ 13件のコメント

タグ

ブログ, 著作権


こんばんは。マッド・アマノです(ウソ)。

ハリーさんのブログの著作権にトラックバックしています。

ライブドアが突然利用規約を変更したということで、ライブドアブログのユーザでは大きな問題になっているらしいですね。ただ、ハリーさんも指摘されていますが、エキサイトでは最初からエキサイトがユーザの著作物を自由に無料で使えるような規約になっています。ユーザの皆さんはそれに同意してブログユーザになっています。もしかしたら認識されていないかも、ということで、どんな問題があるのか考察したいと思います。

■ 前置き

まず逃げをうっておきますが、私がこれから書くことはあくまでも私の理解です。絶対視しないようお願いします(まあ毎回ウソ書いているからそんな心配する必要ないか)。法律は文面はできるだけ解釈の幅が少なくなるようにしていますが、それでも解釈の幅が出てきます。判例で解釈が固まって行くのだと思いますが、著作権に関してはデジタル技術の進展の方が速く、判例が追い付かない場合もあると思います。また、言ったもん勝ちという側面もあるように思います。

また、知的財産権とそれに類する権利には著作権以外にも特許・実用新案、意匠権、肖像権、商標権、不正競争防止法などがあります。著作権的には問題なくとも他の法律にひっかかる場合があります。

これらは、今日の話(自分の権利)には直接関わってきません。なにしろ自分の権利はほとんどエキサイトに与えていますので。

まずエキサイト・サービス利用規約の5.知的財産権の取扱い(2)をみてみましょう。

2) ユーザーが本サービスにおいて情報等を掲載等した場合、ユーザーはエキサイト株式会社に対して、当該情報等について全世界において無償で非独占的に使用する権利(複製権、頒布権、翻案権、送信可能化権を含む公衆送信権を含みますが、これらに限られません)を許諾したものとみなします。また、ユーザーはエキサイト株式会社に対し、情報等に関して著作者人格権を行使しないものとします。

■ (財産権としての)著作権

(財産権としての)著作権は作成した段階で発生します。ブログの場合は記事を公開した時点と考えて良いと思います(非公開に関してはあまり考える必要はないと思っています)。日本では、丸Cマーク、(c)などはつける必要はありません。

こちらの権利に関しての扱いは簡単ですね。ユーザーはエキサイト株式会社に対して、ユーザの著作物を無償で非独占的に使用する権利を許諾しています。「非独占的に」ですから、ユーザが別の形で出版したり映画化権を売る(非独占的ならば)のは問題ありません。

ブログに公開した時点で無料で世の中に提供しているのですから、先に自分の作品集を作られて自分が利益を得る機会が減るのはそれほど問題はないかと思います。ただ、ユーザはその覚悟をもっておく必要があると思います。

問題は、複数の人によって作られた作品、作品集が出版されたりすることですね。具体的には、エキサイトで生まれるかどうかわかりませんが、「電車男」。エキサイトにしてみればこういうものが出来た時にスレッドの(ブログだとコメント欄の並びか)各参加者の許諾を得る必要がなくなるのが大きなメリットになると思います。ブログだとそういう可能性は少ないと思いますが、トラックバック企画等いっぺんに作品集が作れるようなものは、利用される可能性はあります。ただ私は、ユーザを大事にするエキサイトでは問題になるようなことはしないと思っています。

■ 著作者人格権

これには3つあります。著作権法第十八条−第二十条に規定されている、公表権、氏名表示権、同一性保持権です。これらは人に与えたり売ったりできるものではなく、著作者にずっとついて来る権利です。このため、利用規約では「行使しない」としているのでしょう。
・公表権: まだ公表されていないものを公衆に提供し、又は提示する権利
ブログ公開した段階で公表していることになり問題は発生しないと思います。
・氏名表示権: 著作者名として実名若しくは変名を表示するか、著作者名を表示しないこととする権利

ブログ公開した段階で、変名としてのIDを出して公表していることになります。エキサイトしてはこれをID付きで出すかIDなしで出すかの選択を勝手に(一人一人の承諾を得ず)できるということだと思います(実名は別途プライバシーポリシーがあるので考えなくて良いでしょう)。著作権が独占でないのでIDなしで出された場合に自分でIDまたは本名つきで別に出せばよいでしょう。

・同一性保持権: 作物及びその題号の同一性を保持する権利、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けない

これは問題ですよね。勝手に書き換えて良いというのですから。ぎりぎり考えて選んだ言葉が変えられたりしたらいやですね。また、それによって原著作者のセンスが疑われる可能性があります。ただ、これに関してもエキサイトはめったなことはしないと信頼しています。一部伏せ字や仮名にしたり一部省略することを想定しているのだと思います。

これらの規定は普通のユーザにはそれほど問題になるものではないと考えています。ただ質の高い「作品」(小説、詩、写真、イラストレーションなど)を公開している人は先に述べたような覚悟が必要です。あとトラックバック企画も。

これ以外の問題点があると気付かれた方はコメントをお願いします。

次回、「他人の権利の保護」の予定です。まとめるのはちょっと面倒かも。

追記 (追加トラックバック)

絵文録ことのはさん: LivedoorBlog以外にも権利侵害規定!ブログ著作権規約を全チェック
— 引用したハリーさんの記事でも参照されていますが、網羅的にまとめられている力作。この中でTypePadの利用規定では、ユーザがブログを閉鎖したら著作物の利用権も消滅するようになっていますが、一旦出版したもののそのたびに改版して出さなければならないことになり、運営会社(シックス・アパート)は利用権をもっていてもあぶなくて実質的に使えないことになります。

絵文録ことのはさん: 著作者人格権:何が問題で、どう書くべきか?
— 著作者人格権に関してより詳細な解説があります。また、利用規約の提案までされています。

あざらしサラダさん: 【ライブドアブログの規約変更について考える】
— 問題のライブドアのユーザさんです。ライブドアブログの規約は変更のやり方が唐突強引なだけでなく、変更された規約も著作権法を理解していないように見えます。

下品な「かぎ括弧」の使い方 / 不敬の輩 Part 3

13 土曜日 11月 2004

Posted by yoshihiroueda in 言語とコミュニケーション

≈ コメントする


こんばんは。「カッコマン・ブギ」の宇崎竜童です(ウソ)。

今日提出する宿題は: 下品な「かぎ括弧」の使い方

かぎ括弧「… 」は基本的に引用に用います。その部分に手を加えていませんよ、手を加えることはできませんよ、ということを示します。もう少しブレークダウンしてみましょう。

・引用: 誰かが言った言葉、書いたテキスト、定義、またはそれらの一部。丁寧な人は活用をする場合でも変わらないところまでをかぎ括弧でくくる。例えば、「バーボンをのむ」という部分と「葉巻を吸う」を使いたい場合に、『「バーボンをの」んだり、「葉巻を吸」ったりした』など。

・ことわざ、定理など: 誰かの引用ではないが、一般に使われているものであって、それをそのまま使っていることを示す。自分が作った言い回しでないということも示す。例) 『「備えあれば憂いなし」という訳で防災用品を点検しました。』

・題名: 音楽、書物、絵画などの作品に作者がつけた題名。普通の語だったら同義語に変換しても良いが、この場合はそのまま使わなければならないことを示すためにかぎ括弧を使う。

基本はこういうところでしょうか。発展形としては以下のようなものがあります。

・建前では言われている (が、世の中にはそうでないと認識されている) 定説: 口頭では引用部分をしべるときに両方の手をチョキにして (手の甲は外向き) 示すことがある (ダブルクォートの意味)。”Men In Black”では、アナウンサーがこのサインを示しながら「地球外生命体は地球には来ていないことになっています」といっていました。

・世間が与えたキャッチフレーズ、タイトル: 例えば、「無冠の帝王」、「国会の爆弾男」、「XXX社の天皇」など。

・その人が名乗っているタイトル/役職: その人が名乗っていることは事実として伝えるが私は (または世間は) 認めていませんよということを示すため、かぎ括弧をつける。例) 『XXX教「教祖」某山某介』、『「発明件数第一位」ドクター・中松』

特に最後に示した使い方は揶揄したい場合に効果的に使う事ができます。以前私の通っていた (あんまり通ってなかった?) 大学では、大学紛争の名残があって、立て看板がよくありました (うちの大学は中核派が主流だったらしい)。立て看板の中で、「日本民主青年同盟」(日本共産党の… 関係はなんていっていいのか良く知りません、ごめんなさい) のことを

「民」青

と書いてありました。「民主」を標榜しているが決してそのような組織じゃないぞということを主張している訳です。私、「こいつらやってることはバカだけど学あるな」と思いました (私だったら「民」「青」と書くかも)。

揶揄は使いすぎると下品になるので、注意が必要です。

続きを読む →

命の軽重 (4) 人種・民族で重さが違うのか

09 火曜日 11月 2004

Posted by yoshihiroueda in 平和への祈り

≈ コメントする


「命の軽重」このシリーズ最後になります。

人種・民族で重さが違うのか。

私は同じ重さと思いたい。みんなにもそう扱ってほしい。

これで終わり、でいいはずなんですけど、続きがある。

自分から心理的に離れた人の「命」、「死」に実感がもてない。アフリカ、チェチェン、クルド、パレスチナ、北朝鮮、世界中で殺戮や餓死する人たちが大勢いる。そのことを考えるときは心が痛む。だけどそれらの人々の死は自分の生活を脅かさない。まだ新潟で生活の基盤を失った人の苦しみのほうが実感できる。

それは仕方のないことなのかもしれない。これだけ多くの人が苦しんでいたらとても全部の人を救えない。

だが、自分の手で殺したり、自分では殺さないまでも殺す人を支持・支援しているとなるとどうだろう。今アメリカや日本がやっていることはそういうことなのだ。9.11同時テロでたくさんの人々が亡くなった。彼等は無辜の人々で、彼等を死にいたらせたテロは憎むべき犯罪。それではビンラーディンを拘束するためにアフガニスタンで生活している無辜の人々の命を奪うのはどうなのか。アメリカ人や日本人がアフガニスタンの人口の多くを占めていたらどうだったのか。ビンラーディンが日本に潜伏しているという情報が入ったらどうだったのか。

こう考えると我々はアフガニスタンの人の命に重さがないと評価していると考えざるを得ない。それはイラクの人々に対しても同じ。しかもイラクにはビンラーディンはいないのだ。フセインはいたけど、大量破壊兵器は持っていないと言っていたし、それは真実だった。

『「無限の正義」という名の算術」(ライフログにも載せているアルンダティ・ロイ著/本橋哲也訳「帝国を壊すために」に収録) にはこのように書かれている。

1996年に、当時アメリカ合州国の国連大使だったマデリーン・オルブライトが、アメリカ主導の経済制裁の結果、50万人のイラクの子どもが死亡した事実をどう思うかと聞かれて、テレビの全国ネットで、こう答えた。それは「たいへん難しい選択だったが」が、あらゆることを計算に入れれば、「払うだけの価値がある代価だった」と。

払ったのは何に対する代価だったのだろう。そしてその代価を払ったのはアメリカ人じゃない。

太平洋戦争を集結させるために必要だったと言われた原爆も、あの時点では使う必要がなかったはず。戦争終結後、ABCC (原爆傷害調査委員会) は、被爆者を対象に原爆の放射線が人に及ぼす影響を調べた。治療方法を研究したのではなく、効果を調べたのである。その当時のアメリカ人にとって日本人の命の重さがどれだけだったか分かる。

われわれ日本は今はこの国の最大の支援者であることを忘れてはならない。それも意見や忠告をする意志もない、手放しで賛成する支援者なのだ。ブッシュの再選で小泉首相が首相である限りこれが続くことになると考えられる。

北朝鮮のことを話していなかった。北朝鮮には多くの飢えで苦しんでいる人がいる。日本は援助をすべきなのか。したいよね、ちゃんと苦しんでいる人に届くのなら。軍にだけ支援物資がいくのは避けたい。どういう支援方法があるのだろうか。

トラックバック先

□ 天木直人・マスメディアの裏を読むさん: 「11月1日 ◎ 香田さんの惨殺は始まりに過ぎない…」
— 「テロに屈しない」という小泉首相の言葉は、日本がイスラエル寄りの米国と一緒になって、そのようなアラブの武装抵抗勢力と戦うという宣戦布告なのである。

□ 反米嫌日戦線 LIVE and LET DIEさん: 「京都・奈良が爆撃の対象にならなかったという神話」
— 原爆は京都に投下されなかったが、ヒロシマ・ナガサキに投下された。 ドイツではなくて日本に。 奴らにすれば、日本人なんぞ「黄色いサル」でしかなかったのである。

命の軽重 (3) 香田君は自分で自分の命を軽視したのではないか

06 土曜日 11月 2004

Posted by yoshihiroueda in 平和への祈り

≈ 6件のコメント


「命の軽重」3回目です。

命の軽重 (2) では、「自己責任」と「命の重さ」の関係に関して考えた。「自己責任=自分でリスクをとって行動を起こした場合、命はそれだけ軽くなるのか」という問いに対して私の提出した答えは、「否。死に値するだけの責任は存在しない。ただし命を救える確率が等しい訳ではない」である。

今日の問いは、

人が社会に提供する価値によって命の重さが変わるのか。

今日は先に答えを提出してしまおう。

原則 No.

「原則 No.」ってあいまいですね。外交官であれ、ボランティアであれ、ジャーナリストであれ、呑気な旅行者であれ、みんな同じ命。法の範囲内でできる最大限の努力を尽くそう。犯罪者だったら? 法治国家としては、法治国家であることを示すためにも、命を救って、裁判にかけて、それで罪をつぐなってもらう (判決によっては死刑ということもありうる)。要人または何かのシンボル的存在 (たとえば報道の自由の象徴など)だったら? 「法律の範囲の中で」を弾力的に解釈する必要があるかも。いわゆる超法規的措置というもの。(日本人にとって)「テロに屈しない」という価値観よりも守るべきものが大きければ、「テロに屈しない」が戒律であったとしてもそれを破らざるを得ないだろう。「人間の命の重さは同じ」というのはきれいごとにすぎない。「人間の命の重さ」の部分は同じだが、その上に付加価値が載っているというべきか。

さて、今日の表題「香田君は自分で自分の命を軽視したのではないか」に関して。「人が社会に提供する価値によって命の重さが変わるのか」は、ちょっと乱暴な言い換えになるかもしれないが、「人が社会に提供する価値によって人間の価値は決まるのか」ということだ。これは何人かのブロガーの皆さんが指摘されていることだが、香田君は自分を価値のない人間だと考えたのかもしれない。さらに、どうせ生きていても仕方がないと思ったのではないだろうか。推測の域を出ないのだが、そうでなければリスクを軽視した、というより無視した理由が思い付かないのだ。

[補足: あらためてブロガーの皆さんの意見を読むと、「みんな若い頃は無茶やるよね」という意見も多かったですね。それもそうかも、いやいや、いくらなんでも無茶を超えたレベルだろ、とも思う。]

香田君がイラクに旅立った理由に思いを馳せるみなさん

designcafe■さん:「自己責任って・・」
田口ランディのアメーバ的日常さん: 「魔法が消えていく」
何でも書き書きエッセイさん: 「脳足リン、餌食に」
Tomorrow’s Wayさん: 「香田さんの死に。すべての、無力を思う。」
浮世風呂さん: 「「いのち」を思わずにいられない」
ぼちぼち行こうよさん: 「回り道の人生を」

ところで、命の軽重 (2)で「自己責任」と「命の重さ」の関係を、命の軽重 (3)で「提供する価値」と「命の重さ」の関係を、というように分けて意見を述べた。分けたのには理由があって、そうでないと信念が揺らいでしまうのだ。一緒にすると「忠告を聞かずイラクに入った呑気な旅行者」の命の重さは?となる。もっといえば、「忠告を聞かず、所持金100ドル程度しかもたず、短パンTシャツで、イラクに自分探しの旅に行った呑気な旅行者」だ。これでは、悪魔の囁きが聞こえないようにするのは難しい。

命の軽重(2) 自己責任は自分に対しての責任

04 木曜日 11月 2004

Posted by yoshihiroueda in 平和への祈り

≈ 2件のコメント


「命の軽重」続きです。

前回の人質事件で「自己責任論」という概念が提示され、それが正しいものとして定着したかのようだった (今は違ってきている、と信じたい)。 それが受け入れられた背景には、人質の家族の対応に対する反発もあったように思う (これは「覚悟が足りない」で書きました)。香田さんのご両親のように、一番悲しいのは自分達であるのにも関わらず国民の皆さんに謝罪、感謝されている姿があれば違った世論になっていたと考えられる (そんな香田さんのご両親に対して批難の電話をする人も多いそうですが)。

だが、この「自己責任論」って定義された概念なのか。聞いている限りでは、

危険を顧みず、忠告も聞かず出かけたのだから、誰も助けない。また、誰にも助けを求めるな

というように言っているようだ。

ここのタイトルに「自己責任は自分に対しての責任」と書いた。これは、社会に対してまで責任を取れというべきでないといっている。忠告聞かなかったから、
・自分が面倒な状況に追い込まれる。
・恐いめにあう。
・苦しいめ、痛いめにあう。

これらで十分じゃないの? 助けてくれって言っているのに「そのまま死んでしまえ」と言えるほど悪いことをしたの? 国のお金や政府・役人の労力を使うのがそんなにもったいないの? 忠告聞かなかったらそれだけ命が軽くなっちゃうの? などと思う。

・甘い話にのって詐欺にあったら、警察は捜査して犯人を逮捕してくれるんじゃないの? 裁判所は懲役刑を宣告してくれるんじゃないの? お金はあまり戻ってこないかもしれないけど。
・警告を無視して川の中洲でバーベキューしていた人たちに対して、救助隊は罵声を浴びながらも救助しようとしたよね? 全員は助けられなかったけど。
・自殺しようとしているしている人も止めさせようとするよね? 飛び下りちゃったら命は助けることできないかもしれないけど。

もちろん、最善を尽くしても、全てが事件事故がおこらなかったのと同様にはならないかもしれない。国が国民の命や人権や財産を守るということは、あらゆる場合において保証することを意味している訳ではない。ましてや外国では制約も多い。上記3つの例で、「〜けど」とつけたのはそういうこと。そこは本人に自己責任として受けてもらうしかない。

思い出しました。これって、そふぃあさんの受け売りだった (「レベルは違うけど」2004年4月20日)。

「風邪ひいたって、お母さん知らないよ。
自分で薄着がいいって言ったんだからね」
…..

結局、うちの子は薄着で出かけた。
子供の、服を選ぶ自由の権利を
母は認めたのである。
一応、お母さんは知らないよ、とは言ったけどね
風邪ひいたら、しかたない。
看病するのが 親のつとめだもの ね。

ここでは「熱や咳が出て、苦しい」ってとこまでが自己責任ということになるだろうか。

命の軽重(1) テロに屈しないということ

03 水曜日 11月 2004

Posted by yoshihiroueda in 平和への祈り

≈ 2件のコメント


「命の軽重」で書きたかったことの一部だけまず書きます。

香田君の事件がおきて、小泉首相はすぐに「自衛隊は撤退しない。テロに屈することはできない」と発言した(毎日新聞 2004年10月27日)。テロに屈しないというのは世界の共通認識といえるだろう。自衛隊を撤退させないというのはこのタイミングでは正しい選択だ。

「ブッシュとケリー: 同じ穴のムジナ」で紹介している記事「大詰めの選択: 米大統領選の焦点/中 小泉首相、過度の“親ブッシュ”」 (毎日新聞 2004年11月2日)に以下のような記述がある。

「人命は地球より重い」と言ってダッカ・ハイジャック事件(77年)で超法規的措置に応じたのは当時の福田赳夫首相だ。その福田氏の書生をしていた小泉純一郎首相が、イラク武装勢力による「自衛隊の撤退要求」を即座にはねつけ、帰結として香田証生さんは無残な姿で発見された。

この27年間で人の命が軽くなったわけではない。変わったのは、テロリストと取引してはならないという原則が、米同時多発テロ以降、各国の指導者にとっての戒律になったことだ。「テロに屈しない」は、テロとの戦いを最優先とするブッシュ米政権への政治的な同調宣言でもある。

ここでは、「テロリストと取引してはならないという原則が、米同時多発テロ以降、各国の指導者にとっての戒律になった」とあるが、ハイジャック事件の時点で「原則」というものではなくすでに「戒律」になっていたように思う。日本の決定が世界から大きな批判をうけ、はじめて私はそれが世界のルールであることを知った。その後、それで解放された日本赤軍のメンバーが国際テロリストになり犠牲者が多く出たこと、その後発生した事件では他国政府は人質に犠牲が出ても突入するという対応をとったことで、「テロに屈しない」ということが世界の常識であるということを再認識していったと思う。

しかし、「テロに屈しない」ということには2つの意味がある。
・取り引きをしない
・犠牲者が出てもテロリスト=犯罪者を逮捕する (場合によってはその場で射殺する)。

今回、小泉首相は「取り引きをしない」という点では正しい対応をとったといえる。身代金の交渉があったということだが、それは相手の要求が自衛隊撤退ということであれば代案を出したことであって納得のいく対応と言って良いと思う。

だが、香田君の殺害という犯罪に対しての対応はどうか。最悪の結末を迎えたみたいな言われ方をしているが、これでこの事件は終わったと認識してはいまいか。テロと戦う決意を示すと言うならば、犯人の居所をつきとめ犯人を拘束するということまでやってはじめてテロと戦ったといえる。

このためには、イラク政府と協力して行わなければならない。イラク政府が許すならば日本から特殊部隊を投入してもよい (現段階では外国での行動までは法整備と訓練ができてないと思いますのでこれは理想論)。これはアフガン戦争の手法=そこに住む民間人の犠牲を厭わないということをいっている訳ではない。あくまでも犯罪として扱うということだ。

自衛隊の撤退に関しては「覚悟が足りない」で述べたが、別の文脈で行うべきであろう。自衛隊は米軍の支援に行っている訳ではなく、イラクの復興支援に行っているのだから、
・まだ戦争は終わっていないという現実を再確認する
・アメリカの意志でなくイラク政府の求めに応じて行う
・求められる支援を行う (雇用や景気回復が求めていることならば自衛隊でなく民間の力をつかって行う)
ことが必要になる。これらから得られる帰結は、「現段階ではひとまず撤退」ということになる。

これ以上に自衛隊の撤退の意味で重要なことは、「イラク戦争は間違っていたことが分かった」ということだ(もともとそうだったと思うのですが現在言うべきこととして)。これはただの侵略戦争であることが明らかになった。我々は侵略者に与しないというメッセージを発する。

ぶち総研さんの「社説比較。武器輸出三原則見直しへの反応」へのコメントで私は

組んでいる相手が尊敬される存在ならば良いのですが、ギャング団だとしたらその一味とみなされる訳で、直接攻撃を受ける可能性は低くなるかもしれませんが、テロを受ける可能性は格段に大きくなるでしょう。今はまだ発生していませんが、テロによる揺さぶりの効果を考えると、打たれ弱そうな (戦力ではなく覚悟ができていないという意味です) 日本が狙われる可能性は、米国本土よりも高いのではないかと思います。

と書いた。この点は、愛のまぜご飯さんの主張(「妄想」)、冬瓜茶さんの主張(「理解ができれば許せるというものでもあるまい」)と同じと思う。

これで議論が進めば、香田君の死は無駄にならず、ヒーローになりえるのではないか。派兵の意味がこれまで十分に議論されていないといことがなさけないことなのだが。

ただ、小泉首相には「これまで間違っていました」と自らいう勇気はないだろうな。

命の軽重

01 月曜日 11月 2004

Posted by yoshihiroueda in 平和への祈り

≈ コメントする


今回の人質事件では、香田君が亡くなったことが判明してから「命の重さ」に関して議論されるようになったと思います。それはそれで良いことだと思いますし、私も命に軽重はないというのは根っこの部分では分かるのですが、ちょっと違和感が残ります。

日本は、アフガニスタン、イラクへの戦争を支持していますが、多くの無辜の人が死んでいくことになることは事前に分かっていましたが、それらの人の命の重さは量られたでしょうか。北朝鮮への制裁でも同様です。

すみません、偽善にみえることは分かっています。ちょっと今日はこれ以上まとめられません。もう少し考えがまとめられたらトラックバック等おこないたいと思います。

2004.11.3追記: 考えたいことは現段階では以下のようなものがあります。
● 命の軽重 (1) テロに屈しないということ
● 命の軽重 (2) 自己責任は自分に対しての責任
● 命の軽重 (3) 香田君は自分で自分の命を軽視したのではないか
● 命の軽重 (4) 人種・民族で重さが違うのか

← 過去の投稿

カテゴリー

  • カルチャー
  • コンピュータとインターネット
  • スポーツ
  • ネット
  • ビジネス
  • 環境
  • 生活
  • 社会
  • 科学・技術
  • 自然
  • 言語とコミュニケーション
  • 宗教
  • 平和への祈り
  • 息抜き
  • 教育
  • 日本
  • 未分類
  • 世界
  • 人生

タグ

CM iPhone iPod J-POP Mac MacBook RSS Twitter アップル アニメーション アフリカ アメリカ アート オバマ オマージュ オリンピック ケイティ・クーリック サッカー サラ・ペイリン ジャーナリズム スティーブ・ジョブズ ソニー タイポグラフィ チームラボ デザイン トリウム原発 パロディ ファッション ブログ ポール・サイモン マイクロソフト マイケル・ジャクソン マンガ メディアアート 上野千鶴子 中国 写真 勝間和代 原爆 原発 台湾 台風 国境なき医師団 国立国会図書館 国立新美術館 安倍晋三 愛国心 教育 旅行 日本国憲法 日本語 映画 松井冬子 森巣博 森村泰昌 森美術館 横浜 横浜トリエンナーレ 横浜美術館 死刑 民主党/民進党 盗作 石田尚志 竹島 自然言語処理 英語 著作権 裁判員制度 誤用 選挙 長崎 韓国・北朝鮮 音楽 食の安全 麻生太郎

Twitter でフォロー

ツイート

アーカイブ

  • 2016年12月 (2)
  • 2016年11月 (2)
  • 2016年9月 (1)
  • 2016年7月 (7)
  • 2016年6月 (2)
  • 2016年5月 (2)
  • 2016年3月 (5)
  • 2016年1月 (3)
  • 2015年12月 (1)
  • 2015年10月 (2)
  • 2015年9月 (2)
  • 2015年8月 (2)
  • 2015年7月 (2)
  • 2015年5月 (1)
  • 2015年3月 (1)
  • 2015年1月 (2)
  • 2014年12月 (3)
  • 2014年5月 (3)
  • 2014年4月 (1)
  • 2014年3月 (1)
  • 2014年1月 (5)
  • 2013年12月 (1)
  • 2013年9月 (1)
  • 2013年5月 (2)
  • 2013年4月 (1)
  • 2013年1月 (1)
  • 2012年12月 (2)
  • 2012年11月 (1)
  • 2012年10月 (2)
  • 2012年9月 (1)
  • 2012年8月 (5)
  • 2012年7月 (2)
  • 2012年5月 (1)
  • 2012年4月 (1)
  • 2012年3月 (1)
  • 2012年2月 (4)
  • 2012年1月 (2)
  • 2011年12月 (1)
  • 2011年10月 (6)
  • 2011年9月 (2)
  • 2011年8月 (8)
  • 2011年7月 (2)
  • 2011年6月 (1)
  • 2011年5月 (6)
  • 2011年4月 (3)
  • 2011年3月 (2)
  • 2011年2月 (3)
  • 2011年1月 (4)
  • 2010年6月 (7)
  • 2010年5月 (8)
  • 2010年4月 (8)
  • 2010年3月 (7)
  • 2010年2月 (10)
  • 2010年1月 (10)
  • 2009年12月 (10)
  • 2009年11月 (10)
  • 2009年10月 (9)
  • 2009年9月 (13)
  • 2009年8月 (8)
  • 2009年7月 (13)
  • 2009年6月 (9)
  • 2009年5月 (9)
  • 2009年4月 (3)
  • 2009年3月 (3)
  • 2009年2月 (1)
  • 2009年1月 (1)
  • 2008年12月 (5)
  • 2008年11月 (25)
  • 2008年10月 (18)
  • 2008年9月 (13)
  • 2008年8月 (16)
  • 2008年7月 (23)
  • 2008年6月 (22)
  • 2008年5月 (16)
  • 2008年4月 (13)
  • 2008年3月 (6)
  • 2008年2月 (4)
  • 2008年1月 (5)
  • 2007年12月 (2)
  • 2007年11月 (13)
  • 2007年10月 (2)
  • 2007年9月 (4)
  • 2007年8月 (5)
  • 2007年7月 (5)
  • 2007年6月 (1)
  • 2007年5月 (4)
  • 2007年4月 (3)
  • 2007年3月 (4)
  • 2007年2月 (3)
  • 2006年12月 (5)
  • 2006年11月 (2)
  • 2006年10月 (7)
  • 2006年8月 (3)
  • 2006年7月 (3)
  • 2006年6月 (5)
  • 2006年5月 (5)
  • 2006年4月 (2)
  • 2006年2月 (1)
  • 2006年1月 (3)
  • 2005年12月 (3)
  • 2005年11月 (2)
  • 2005年10月 (2)
  • 2005年9月 (6)
  • 2005年8月 (6)
  • 2005年7月 (6)
  • 2005年6月 (6)
  • 2005年5月 (4)
  • 2005年4月 (4)
  • 2005年3月 (7)
  • 2005年2月 (2)
  • 2005年1月 (2)
  • 2004年12月 (12)
  • 2004年11月 (11)
  • 2004年10月 (8)
  • 2004年9月 (6)
  • 2004年8月 (11)
  • 2004年7月 (5)
  • 2004年6月 (7)
  • 2004年5月 (3)
  • RSS - 投稿
  • RSS - コメント

WordPress.com Blog.

プライバシーと Cookies:このサイトは Cookies を使用しています。このサイトの使用を続けると、Cookie の使用に同意したとみなされます。
Cookie の管理方法を含め、詳細についてはこちらをご覧ください: Cookie ポリシー